「ちょっとオフサイド」~元記者が描くエピソード

書かなかったいい話や書かなくてもいい話をちょっとオフサイド(前のめり)気味に書きます

七月の槍(やり)

 上方を中心に活躍した講談師の旭堂南陵(きょくどう・なんりょう)さんが、7月30日にすい臓がんが亡くなった。70歳だった。

 南陵さんとは一時期、大阪・北新地にある居酒屋「ふ留井」に定期的に飲みに行った。「ふ留井」は歴代の毎日新聞記者が通っている居酒屋で、南陵さん馴染みの店でもある。

 私は毎日新聞で3年半、記者職を離れて企画部という部署に在籍していたことがある。主に大学の広報誌や業界誌などを制作するもので、その媒体の一つに経済関係の業界紙があった。この業界紙で、南陵さんに連載コラム「大阪弁笑解」を書いてもらっていた。南陵さんは上方講談の第一人者だけではなく、講談や関西の芸能の研究などでも知られ、大阪芸大客員教授も務めていた。その膨大な量の知識を活かして、コラムでは昔からある大阪弁をユーモアを交えまさに〝笑解〟してもらった。 業界紙は年4回発行だったので、コラムの内容について話を聞くという名目で、3年半の間に十数回、一対一で酒を飲んだ。

  まず乾杯した後、大阪弁や昔ながらの言葉の使い方などコラムで取り上げる内容を南陵さんから教えてもらうのだが、南陵さんが取り上げる言葉をスッと理解できる時もあったが、大半は知らなかった。正確に言うと、まったく知らないのではなくて、どこかで一回くらい聞いたことはあるけどぎりぎり思い出せない感じ、もっと分かりやすく言うと、背中の真ん中を蚊に刺されてかゆいので、手を思い切り背後に回して痒い箇所をかこうとするけどぎりぎり爪の先が届くか届かないかという感じ、と言えば分かるだろうか。余計分からないでしょうか。

 例えば、根性という言葉。ガッツと同義語だが、大阪では本来「根性が悪い」という使い方で、いい意味では使っていなかったと南陵さんから聞いた。つまり、本来の意味は「性根」「心根」。そう言われて記憶を遡ると、小さいころ、いじわるをする子を大阪弁で「根性悪(わる)やわ」と言っていたような気がうっすらとするが、それがいつだったのか、小学校1年のころか、その前か、はっきり覚えていない。

 根性が今のようなガッツや頑張るなどの意味になったきっかけは、1964年の東京オリンピックで女子バレーボルが金メダルを取った以降だとか。「巨人の星」に代表されるスポ根漫画などもあり、根性は今の意味に定着したらしい。「ど根性ガエル」というアニメ(今も主題歌は口ずさめます)も人気があった。

 私自身、根性の本来の意味を思い出したと言えるのかどうか分からない。痒いところに爪の先が届いたか届いていないかくらいで、痒みは残ったままの状態だ。だが、南陵さんと話をしていると、このすっきりしない痒い感じが楽しい。

 南陵さんは故事にも詳しかった。ある時、一緒に飲みながら、大阪弁では頼りない人を「のれんにもたれて、麩かんでるような人やで」と表現すると聞いた。確かに大阪弁らしい言い方で、ほかにもいろいろな例え方を教えてもらったが、いずれも聞いたことがあるようでないようなぼんやりした記憶しかないと言うと、南陵さんは私に「七月の槍のような人でんな」と言った。

「ちょっと待って下さいよ、これも昔聞いたことがある気がするけど、うーん、どういう意味だったか、あまりいい意味ではなかったような気がするけど、薄ぼんやりとしか思い出せないです」と降参した。

「自分でもう答え言うてまっせ」と南陵さんは笑った。七月は旧暦や地域によってお盆の時期になるので、「七月の槍」は「ぼん(盆)やり(槍)」という意味。七月の槍のような人は、ぼんやりした人という意味になる。

「あー、なるほど。ぼんやりか……。っていうか師匠、そらおまへんで」と返すと、「がははは」と南陵さんは楽しそうに笑った。

 毎度、こんなやりとりでとても楽しい時間を過ごした。新型コロナウイルスの感染拡大が落ち着いたら久しぶりに飲みにお誘いしようと思っていたが、今ではもう叶わない。本当に寂しい。

 心からご冥福をお祈りいたします。

 

「大林版禁じられた遊び」

「大林版禁じられた遊び

 映画監督、大林宣彦さんが今年4月、肺がんのため82歳で亡くなった。

 訃報を聞いた時、大林映画のファンとして本当に残念だった。そして、「大林版禁じられた遊び」を見る機会はもうないのだなと思った。

 毎日新聞長岡支局に勤務していた2012年3月、大林監督を取材したことがある。太平洋戦争末期の新潟県・長岡空襲(1945年8月1日)の犠牲者を慰霊するために打ち上げられる長岡市の花火を描いた映画「この空の花 長岡花火物語」の完成に伴ってインタビューし、毎日新聞新潟版に掲載された。

 この映画の後、大林監督の映画は「野のなななのか」「花筐 HANAGATAMI」と戦争3部作につながっていった。と思ったら、大林監督の超人的な制作意欲は衰えを知らず、がんと闘いながら最後に「海辺の映画館―キネマの玉手箱」(https://umibenoeigakan.jp/)を残した。コロナ禍で上映が延期されていたが、いよいよ31日から公開される。映画少年時代からの大林監督のすべてが凝縮された「大林版ニュー・シネマ・パラダイス」と言われている。反戦への強い思いが込められた大林監督の遺作だけに、必ず見に行こうと思う。

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 大林監督の映画は、商業映画デビュー作「HOUSE ハウス」や尾道三部作「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」などファンタジー色が強い作品が印象に残るが、「恋人よ、われに帰れ」(テレビドラマ)や映画「野ゆき山ゆき海べゆき」ではストレートに反戦のメッセージが描かれている。

 大林監督にインタビューする数日前、長岡市で長岡アジア映画祭を今も孤軍奮闘しながら開催している映画仲間の菅野君から気になる話を聞いた。菅野君が以前、大林監督の講演会を聞きに行った時、大林監督が原爆に絡んでぎょっとする体験談を語ったという。ただその後、どのメディアでもそのエピソードを見聞きしていないので、ひょっとしたら自分は夢でも見ていたのではないかと思ったといい、「可能ならあの体験談を確認してほしい」と頼まれた。

 インタビューは東京の大林監督の事務所。なぜ長岡花火の映画を撮ろうと思ったのかなど、平和への思いをじっくりと聞いた。その話の流れの中で、大林監督から「あの体験談」を聞いた。

 大林監督は1938年、広島県尾道市で生まれた。太平洋戦争当時、尾道には捕虜の収容所があり、大林監督の祖父は捕虜たちの主治医をしていた。敗戦後、当時7歳の大林監督が学校にいたら、家から迎えがやってきて、「祖父母が処刑されるから、帰りなさい」と言われて急いで帰ると、家の前には白い水兵服を着た米兵たちが何人もいた。

「お尻の大きな太った巨大なお相撲さんみたいな人がいっぱいいましたよ。捕虜が解放されたんですね。それでうちのじいさんが捕虜たちの主治医をしていたので、捕虜たちがパラシュートの生地やパイナップルの缶詰、チョコレートやチューイングガムを持って、我が家にお礼に来ていたんです。そこで私も初めてチョコを食べて、こんな甘いものを食ったことはないし、ましてチューイングガムも、噛んで捨てると聞いて、そんな食い物があるのかと思った」

 「あの体験談」はこの後に続く。

 広島に原爆が投下され、敗戦後、何日かして広島から線路づたいに避難してくる人たちがいた。彼らは尾道のあたりで力尽きてバタバタと倒れ、挙句の果てに汽車にひかれた。線路脇にはむしろがいくつもかぶせてあり、そのむしろの下にはざっくりと二つになっているような轢死体が放置されていた。

 大林監督は、少しためらってから語った。

「子どもはすごいですね。原爆投下から10日くらいたっていたかな。まだ死体が(線路わきに)転がっていた。(米兵の捕虜からもらった)パイナップルの空き缶を持って、その(轢死体の)肉を空き缶に入れて子どもたちは遊んだんです。『禁じられた遊び』ですね。後に映画『禁じられた遊び』を見た時に、よく分かりましたよ。僕たちもこうだったなってね。原爆体験というのは、僕にとってそういうことなんです」

  線路わきのむしろをめくり、死体の肉をつまんで捕虜だった米兵からもらったパイナップルの缶詰に入れてはしゃいでいる子どもたちの姿を想像した。尾道という世界の片隅にも、確かに「禁じられた遊び」はあった。

 ちなみにフランス映画「禁じられた遊び」(1952年、ルネ・クレマン監督)は、第二次世界大戦中のフランスを舞台に、お墓をつくり十字架を供える秘密の遊びを気に入った二人の子どもの話で、哀愁のある音楽も有名だ。

 後で知った話だが、大林監督の少年時代から青春時代を描いた本「大林宣彦 がんぼう」(2002年、角川書店)の中で、大林監督は、轢死体と空き缶の話を語っていた。ただ、本の中では「禁じられた遊び」は引用していない。私自身は当時、この轢死体と空き缶については記事にしなかった。長岡花火の映画の取材だったことと、紙面のスペースの制約もあった。もちろん、長岡の菅野君には後日、詳しく伝えておいた。

 インタビューの最後に、私は轢死体と空き缶の話を改めて持ち出し、「『大林版禁じられた遊び』が見たいです。尾道を舞台に、監督の少年時代をモデルにした『大林版禁じられた遊び』。ぜひ作ってください」とお願いした。大林監督はうれしそうに笑っていた。

 インタビューは1時間という約束だったが、話は熱を帯び大幅に延びた。今、手元にあるICレコーダーで確認するとインタビューは2時間以上に及んでいた。改めてICレコーダーから流れる当時の大林監督の元気な声を聞きながら、大林監督が全身全霊で映画に込めた反戦と平和への痛烈な思いを、私なりに若い世代に何らかの形で伝えていきたいと切実に思っている。

  インタビューを終え、リュックにノートとICレコーダーなどを入れ、あいさつをして帰ろうとした時、なぜだったか覚えていないが、デビュー作『HOUSE ハウス』(1977年)の話になった。当時中学3年だった私は、大阪・天王寺の「あべのアポロシネマ」(だったと思う)に見に行ったと大林監督に話した。映像の斬新さに衝撃を受けたのはもちろん、池上季実子さんの美しい肢体や神保美喜さんの太もも以上に強烈な印象を受けたのは、妖艶な大人の魅力というか魔力を放っていた鰐淵晴子さんで、「男はこういう女性(鰐淵さん)に入れあげると、人生破滅してしまうやろうなと思いました」と話すと、大林監督にすごく受けた。すると、大林監督が女優さんについて語る即席の〝女優講座〟が始まった。私はすぐに椅子に座りなおし、20分くらいだったと思うが、ワクワクしながら話に耳を傾けた。

 今思えばこのインタビューは大変贅沢な経験で、大林監督には心から感謝している。なお、〝女優講座〟の内容については、大林監督はオフレコだからいろいろ話してくれたと思うので、私の宝物として胸の内にとどめておきたい。(2020年7月29日)